隠岐の祭りの蛇巻きに縄文を見た

 ぼくは歴史学、考古学には明るくないけれど、先日、10年以上前に京都の定宿の友人宅の近くのブックオフでなんとなく興味があって買ったのを覚えている『古代は輝いていた』(古田武彦)という本を久しぶりにつらつら読んでいたら、京都府に「蛇綱」の祭りがあり、年末に藁で蛇を編んで一月の初めに集落を巡り厄除けをするのだが、蛇が子供などを噛むということが書かれていた。

 これは福岡の豊前神楽の藁蛇がやることと同じではないか。そしてその蛇を柿の木に年末まで掛けておくのだそうだ。これは大元神楽などと通じる。

 そしてこれが書かれていた章のテーマは「日本神話の多元性」で、弥生~古墳期の蛇信仰と銅剣について触れていたあたりだけど、載っていた青銅器分布図の②のエリアが隠岐から豊前まで入っているもので、中国地方は殆ど入っているし本川神楽の四国も入っている。

 藁蛇の祭りは関東にもあるし奈良盆地にもあるそうだが、奈良の場合は古田武彦氏に言わせれば、古代出雲由来と言うことか。

 そして別の章には縄文と黒曜石についても書かれていた。ここのところぼくは「神楽には縄文から現代までのすべての時代の文化要素が見つけられる」という切り口で考えて(大妄想して)いるので、このあたりから先日訪ねたけど忘れてて行かなかった隠岐島後の古い神社のことを思い出し、青銅器時代からさかのぼって縄文をイメージして久しぶりに燃えてきたのだ。

 

 隠岐は黒曜石の産地で縄文時代から栄えていた島だ。それより前の旧石器時代の原産地遺跡も確認されている。で、縄文時代という名前は土器に縄の模様がついていたことから命名されたのだが、その縄はシダなどの草を使った撚り紐が主流だったはずで、綱、ロープとして使える強く長いものはツル植物だったのではないかと考えられる。

 隠岐には鹿のような大型の野生動物はいなくて、動物はいてもせいぜいうさぎくらいなので狩猟文化はなく、ここの縄文人はすぐれた海洋民だったから、船とそれを引くロープは極めて重要なものだったはずだ。ロープは隠岐に限らず海に生きる文化には重要だったはずだし、川の物流にも不可欠だったろうが、隠岐にその縄文文化の痕跡が残っていると見ている。

 

 それは以下のような理由による。隠岐には「蛇巻(じゃーまき)」という巨木に藁蛇を巻く祭りをする神社がいくつかあるが、その中でも古い祭りと言われているのが布施の大山神社の山祭りで、ここで杉の巨木に巻かれるのは藁縄ではなくサルナシのカズラ(ツル)なのだ。七回り半巻くのだそうだ。

 サルナシはWikiには「蔓は直径約5cm、長さは50mにも伸びることがある。非常に丈夫で腐りにくいことから「祖谷かずら橋」(吊橋)の材料にも使用されている。また、かつては河川で流送されてきた木材を回収する場所(網場)の網の親綱にも利用されていた」とある。藁綱より強いから今でも使われているのだが、「蛇巻」として巻かれているのは稲が入る前の縄文の要素が残っているという見方が出来ないだろうか。この貴重なロープが採れるのが山の中なので山祭りと呼ばれ、巨木信仰と蛇信仰にやがて綱信仰が融合したのではないだろうか。

大山神社の杉の巨木

巻かれたカズラ

 この大山神社に行ったのは2014年、隠岐神楽探訪ツアーメンバーのひとりが鈴木正崇先生だったので先生のプランで車を走らせ訪ねた。そしてその前に訪ねたひとつが御客神社でここも古く、見逃しそうなところにある。さすが鈴木先生である。ここは磐座が御神体なのだけど、鳥居が杉の木二本で、棒を横に渡し、そこに藁綱が巻かれている。巻いているということは蛇だし、今の鳥居の注連縄の原型にも見える。鳥居に藁蛇は珍しくないがかつてはこれもサルナシのカズラだったかもしれない。鳥居の原初的な姿はこのような柱を二本立てていたということと考えられていて、柱を立てる信仰も縄文につながると言えそうだ。 

 今の注連縄が二重螺旋の形になったのは縄をなうときの物理的理由もあるだろうが、造形的には蛇の交尾を表しているとも考えられていて注連縄自体は稲作文化由来とされている。蛇の交尾を見たら縁起がいいとも言われるが、ここに至ってぼくの大妄想は鳥居の注連縄は縄文の蛇信仰由来で、神楽で祖先神などの依代になる藁蛇も同じなのではないか、そして蛇神を綱でビジュアル化した経過の発端が隠岐にリアルに残っているという風に広がるのだ。

御客神社の鳥居

 

#隠岐 #縄文 #神楽