8月11日 南相馬市小高区女場の日鷲神社臨時夏祭「ふるさとにつどう夏!!」

10日夕方に福島県伊達郡国見町の熊谷陽子(ちゃんこうよう)宅に到着。東京からおおたか静流、松井亜由美ご両人も到着。つい先日ここで会ったばかりだ(笑)。でこの顔ぶれが揃えば宴会だ。浦山さんが地元でも評判の魚屋さんから刺し身をいっぱい買ってきてくれた。ちゃんと産地を表示して売っているとのこと。
ガンガンいきたいところだけど、朝が早いので早めに就寝。

11日6時半に楽器や荷物を積み込み国見町から南相馬の小高区女場の日鷲神社へ。たぶん一般的には迷惑な"ちゃん"の法定速度安全運転だったが、9時前には現場に着いた。途中ホットスポット通過。
日鷲神社ではすでに今回記録してくれる映画監督の天願大介組が仕事始めてた。

日鷲神社は、650年ほど前に総州相馬郡の殿様がこの地に移ってきた時に連れてきた三社三寺のうちの一つだということでで、下総の鷲宮神社から来たもので勧請された時は鷲宮社と呼ばれ明治5年に日鷲神社となったそうだ。祭神は「天日鷲命」。天孫三十二神の一神で弓矢を持ち大鷲にまたがって先駆けとなって天降りしたという神話から戦いの神として平将門が篤く信仰したという神。下総の鷲宮神社源頼朝も崇敬していたというから武士にとって武運長久の神だったわけだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/日鷲神社_(南相馬市)
今は村社となっているが、もともとは国や藩を鎮護するお宮だったはずである。だから鷲宮社がここに移された時には元からあった神社の存在も考えられる。海も山も近く良い土地だから人が住んでいたわけだしね。今の本殿の左側にひなびた祠の「山津見神社」があるのでひょっとしたらこちらが先にあったのかもしれないが、詳しくはわからない。


途中に道祖神と女陰石が並んでた。道でもない階段の途中に道祖神というのもへんなので、陰陽石なんでしょうか。

戦時中は出征兵士の無事や軍功を祈願してよそからお参りに来た人も多くいたらしいが、今は女場集落の氏神さまのお宮という存在になっている。
小さな山の上の本殿は小さく、かつては殿様たちが参拝に来るたびに臨時の、今で言うテントみたいな参拝所を作ったらしい。山の後ろが低くなっているあたり、伊勢に点在する古いお宮の跡を思い出した。
だから今は一番下にある祈祷殿が拝殿のような役割をしていて、今回のお祭りもここで行われた。年配の人も多いので椅子やテーブルが並べられ、正面は子どもたちが茣蓙に座れるスペースを確保していた。隣の宮司宅の前にはテントが張られて、ここにもテーブルや椅子、物販コーナーなど作られていた。縁側の前には五徳のガス台が並び、もち米が蒸されていて、縁側では氏子のお母さんたちがお持ち作りの準備をしていた。
みな、それぞれ別の町に避難しているのだから本当に久しぶりのお祭りのはずで、和気あいあいぶりが特別なものに感じた。


そう、フクイチ事故での避難地域の神社での一番最初のお祭りが、今日この日の日鷲神社なんだということだ。
僕はドライヤーで太鼓の皮の張りを調節。暑いし湿度も高いから何分持つか、の世界だ。

10時から宮司さんの修祓で祭は始まった。氏子総代さんたちが拝殿に上がってお祓いを受け、参集した人たちもお祓いを受けてから、宮司の挨拶があり、ポスターのイラストを書いた高校生が紹介された。
それから僕の太鼓の出番である。
僕に声をかけてくれた友人ミュージシャン、「めいなCo.」の"ちゃん"は、まず祭の最初に太鼓の音がほしいから僕に来てもらいたいと思った、と言ってくれた。"ちゃん"はこの祭りの音楽部門の責任者で、宮司とともに主催者代表であり『神社は警告する─古代から伝わる津波のメッセージ』の著者のひとり熊谷航さんは彼女の甥にあたるのだ。
http://ameblo.jp/jinja311/entry-11578196265.html
僕のポスター等の告知での肩書が「神楽太鼓ミュージシャン」。初めて使われる肩書だけど、気持ちはそのとおりなのでまんざらでもない。これからも使うかも(笑)。

僕の演奏は、最初に笛奏者の雲龍さんが石笛を模して焼き物で作った「息吹之笛」を吹く。緊張してて最初の音はかすれてしまった。そして友人の陶芸家が作ってくれた鳥の形をした笛やティンシャなどを交えながら太鼓の即興演奏。それからいつもはカラオケを使って歌っているオリジナルの「kamiuta」をオケなしで歌おうとしたら、うまくメロディーが出てこなくて、ヘンテコな神歌になった。それはそれで新曲ができたとも言えるけど、焦りのほうが強くて急きょ花祭、布川のうたぐらにシフトチェンジ(汗)。
そして遠山霜月祭、中郷の「七五三引き」に日鷲神社の名前を歌い込む。ひととおり歌ったら予定の10時半になったので、PAさんとの目配せもあり、僕の出番は終わらせようとした。
子どもたちが帰る時間が決まっているという話を聞いていたので、押してはいけないと思ったのである。
そしたら"ちゃん"が「もう終わっちゃうの? もっとやってよ」と言うので遠山の上村タイプの神歌の盛り合わせパターンにこの辺りの神社の名前を差し替えて織り込み歌った。結果的にこの歌を歌うことで喜んでもらえたようで安心した。

そのあとは地元のミュージシャンで市役所職員のランブリン前田さんによる「復興のブルースを唄う」というプログラム。これを聞いていたらお母さんたちが「あんこがいいかい?きなこがいいかい?」と作りたてのお餅を配り始めた。そろそろ11時だし、朝も早かったし、なにか食べておかないとビールも飲めないな、と思い、きなこ餅をいただく。
餅つき機で作ったようだけど搗きたてなのであまり噛まずに食べたせいか、これが後々まで響くことになる。僕の興味は販売されるという「石巻焼きそば」にもあったのだがw。
このあたりで国見町から第二陣で出てきたおおたか静流、松井亜由美の二人も到着。

そして子どもたちが参加する餅つき、昼休み、トークショーとプログラムは続いた。けっこうゆるい進行で「終わりの時間ー気にすることはなかったのか」とこの時点で理解することになった。
物販では缶ビールが200円。ジュースが100円、ノンアルコールビールにいたっては無料という太っ腹ぶり。ビールがスーパードライしかなかったのが玉に瑕だけど文句は言えない。
そして販売されるはずの石巻焼きそばがなんと無料で振る舞われているではないか。お茶付きで。

地元のお店が来て作っていたのでパッケージには相馬野馬追の絵が書いてあるという石巻焼きそばだったけど、さっそくもらって、ビールとともにいただく。麺の色がグレーで食感も伸びた日本そばみたい。第二陣の運転をしてくれた福島の安斎くんと「この麺はなんだろうねえ」と話していた。
あとから調べたところによれば石巻焼きそばは中力粉を二度蒸しして使うそうで、なんでこの色になるかは不明とのこと。焼いた最後に出汁をかけて蒸すんだとか。そしてソースの味付けはあとからで目玉焼きが乗るのが特徴だそうだ。

そんなこんなしているうちに、お弁当が配られた。これは楽屋(この日は宮司さん宅の広間が控室)弁当としてはかなり立派のもので石巻焼きそばのお店が作ってくれたみたい。ちゃんとお品書きがついていたりして美味しそうだけど、さっきの餅がこたえて食欲が出ない。ビールを飲む気にもならない。こりゃ僕としては珍しい状況となったぞ。

トークショーは東京から来た神社大好きの営業コンサルタントとかいう(本はベストセラーらしい)和田裕美という女性と、西山宮司と、急きょお願いされた映画監督の天願大介氏の三人によるもの。めいなCo.が天願組の映画の殆どの音楽を担当しているという間柄から、記録に駆けつけてくれただけなんだけどw。
宮司さんのこの祭りにかける熱意が伝わってきてよかったけど、司会をした熊谷航氏の話がいちばんまとまっていたりしてw。


そして次は土井徳浩さん(クラリネット奏者)と太田朱美さん(フルート奏者)のデュエットによるジャズ演奏。どんなんかなあ、と思っていたけどなかなか素晴らしいもので良かった。この楽器の組み合わせも珍しいけどかなりの説得力。実はご夫婦らしいので息も合うのだろう。
僕が学生時代にジャズ聞いていた頃って日本人でこういうレベルの人多くはなかったなあ、みんなうまくなったもんだと感慨深かった。おおたかさんに話してもピンとこなかったみたいだけどw

そしておおたか静流のライブへ。ポスターでは「おおたか静流のでんでらりゅーば」となっていたから子どもたち向けになるはずだったけど、思ったより子どもたちは多くないし、「大人向け」と「子供向け」の割合をどうするか、控室ではメンバー三人、大いに悩んでいた。でも始まると打ち合わせは吹っ飛ぶこと多いしね、ともw。

まずは子どもたちを前に「でんでらりゅーば」を始めた途端に雨が降りだした。それもどんどん大粒に。「おおたかさんは雨女だからそのうち降りますよ」なんて午前中冗談言ってたのがほんとうになった。いったん止めて子どもたちを祈祷殿の屋根の下まで近づいてもらって、再開。そしたら雨やんじゃった。また「おおたか静流妖怪伝説」が増えたわけだ。となりの原町区はかなり降り続いたらしい。
子どもたちとの距離も縮まり、なごみながら歌は進み結局、子どもたちも拝殿にあげてしまった。さすが静流さんは場を読んで対応して流れを作るのが上手い。
ぼくも途中から太鼓で参加することになっていて、まずは太鼓とおおたかさんの二人で「じんじろげ」を。急に「ソロ!」とか言われて困ったけど、子どもたちもまだ上にいたし太鼓の胴から拝殿の柱を叩いていく「ハナ肇」の真似みたいなのをしてお茶を濁したw。
そして「三上さんお暇ならそこにいて下さい」ということでそのままいたのだが、なんと始まった曲は打ち合わせにない曲で焦る。譜面もないし。でもご本人はいっこうにおかまいなしw。そんなかんじで二曲やり最後の「花」では、今日は国見で留守番中のめいなCo.の浦山さんから借りたギターを弾いた。そしてアンコールで「おもいとげねば」を。「じんじろげ」と「花」とこの曲三曲を手伝うことになってたんだけどねw。でも面白かった。子どもたちもずっとおもちゃの楽器を鳴らし続けてて、それがまた良かったし。
ちょっと皮がゆるんで太鼓の音が低かったかな、というのが反省点。許容範囲ではあったけど。



あと、終わった後に子供が二人親御さんに連れられてきてライブに間に合わなかったので、二人のためにまた「でんでらりゅーば」のアンコールゲリラライブ。他の子達も残っていたので大喜び。このあたりもさすがおおたか静流である。


そして地元の民謡の人達による民謡ショーが続き、その後は神社の下の空き地で少しだけ盆踊り。降りていってびっくりしたのはヤグラの立派なこと。とても昼間しか立ち入れない区域の盆踊りとは思えない。きっと帰れない悔しさをエネルギーにして作ったのだろう。氏子総代の一人が棟梁なんだそうだ。きっとまた来年も組み立てて使うことだろう。その時はもう帰ってこれるところになっているかどうか。規制が解除になっても生活インフラがね、とみんな言ってた。
フクイチから15kmだけど線量は低いらしい。「国見のあたしんちの居間の方が高いよ」と、"ちゃん"は言ってた。

盆踊りの輪も敷地いっぱいに広がって、生での「相馬盆唄」の盆踊り。周りに生活の匂いのしない場所での盆踊りは不思議な感じだった。



そして最後がキャンドルセレモニー。地元のキャンドル製作者新目敏雄さん指導のもと、キャンドルを灯し、祈りを捧げるというもの。このキャンドル、アロエベラジュースというかなり高価なジュースのボトルを切ったものの中にロウソクを灯すというもので、本殿までの階段にズラリと並べられていた。なんでも600個あるとか。大変な作業である。子どもたちにボトルにメッセージを書いてもらって火を灯そうというものである。

で、暗くならないと綺麗じゃないので時間つなぎにまた「神楽太鼓ミュージシャンw」が神歌歌うということになったんだけど、進行は二転三転、結局宮司さんが護摩を焚いてその火を火種としてキャンドルを灯すことに。ぼくの役割はその護摩焚きの間の太鼓演奏ということになった。
護摩焚きはもともと密教僧のすることなので神社では珍しいが、ないことはないらしく吉田神道護摩というものがあるそうで、相馬地方には多いらしい。けっきょく戦勝祈願なんですね、このあたりの神社は。

祝詞を上げて護摩焚きをはじめ、その時も護摩焚きの祝詞が上げられた。ぼくはその様子に合わせていくつかの神楽のお囃子のパターンを叩いたり、即興で雰囲気に合わせて叩いたり、とても貴重な体験をさせてもらった。この瞬間にほんとうに神楽太鼓ミュージシャンになれたのかもしれない。こういうのならこれからもやりたい!!
今回来ていた神社庁相馬地区の代表の人が打ち上げで「あの太鼓は本物っていうか、まあプロの音楽家なんでしょうけど、神社での太鼓としても本物でびっくりしました」と言われ、嬉しかった。

護摩焚きの火をキャンドルに移して、みんなで階段を登って本殿へと行ったのだが、子どもたちが通り過ぎたあたりで階段の場所でおおたかさんが「アメイジング・グレイス」を歌う。伴奏の二人は祈祷殿で演奏。なかなか感動的なシーンだった。





上には行かなかったので、どんな様子だったかわからないけど、このキャンドルセレモニーはとてもよい祈祷と神送りになったと思う。
祭りは無事終了。

なんか、音楽界の端っこで孤独に太鼓叩いて神歌歌ってきたけど、なんかひとつ先に進ませてもらったような気がする。"ちゃん"とは30年以上の付き合いで、そのきっかけはあがたさんだったけど、ここにきてこんなコラボレーションになるなんて、縁は異なもの味なものとは本当である。

打ち上げを原町区に戻ってしたんだけど、宮司さんの話がすごいというか、面白かったが長くなるので割愛。天願さんの記録が公開になることがあれば見てほしい。打ち上げではなんとか酒は飲めたけど食べ物は残してしまった。まだ午前中の餅が響いていたのである。

昼の食べられなかった弁当は宿の松井さんの部屋の冷蔵庫に入れてもらった。僕の部屋には冷蔵庫がなかったのである。そしてまた"ちゃん"におおたかさん、松井さん、安斎くんに僕の音楽組で"ちゃん"の部屋で部屋飲み会。ぼくは1時半頃離脱したけど、3時ころまで飲んでたらしい。ここでは福島県民の本音をいろいろ聞く。なぜ自民党に投票したのか、とかね。これはまた別の機会にその気になったら。

そして翌日国見へと帰った。原町区の道の駅で「浪江焼きそば」の麺とミネラルウォーターを買い、それをお持ち帰りの弁当に保冷剤としてと一緒にしてね。国見に着いたのが12時半頃。みんなは向かいの店から冷やし中華の出前をとることにしたが、ぼくは13時17分の電車に乗らなければならないので昨日のお持ち帰りの弁当を24時間経ってやっと食べることが出来た。大事に保存してたから問題なかったよ。おいしかったです。疲れてたから写真とるの忘れた。

そして仙台空港から札幌に戻ったのでありました。みんなお疲れ様でしたー!!