神楽の「岩戸開き」で子供がアマテラスをする理由について

 きっかけは先日宮崎県の綾町に「宿神」という地名と宿神の祠があるということを知ったことからだった。
 綾町に一曲だけ神職が祭祀の中で舞う神楽が一曲残っていて、それなら神楽三十三番復元できないだろうか、という動きになった。そのキッオフイベントのようなシンポジウムに参加したのだけれど、現在宮崎市の西の方に位置して豊かな照葉樹林の山を保全してきた自然と文化の綾町が、縄文時代はすぐ近くが海で縄文遺跡もあるという。

 そこですぐに浮かんだのが中沢新一さんの「アースダイバー」のアプローチだけど、それより2003年に出た「精霊の王」をもう一度読み直さねばと思ったのである。

 幸か不幸か頭脳が「学者脳」でないので一度読んだくらいじゃ本の内容は記憶できない。いろいろ出てくる地名や神仏の名とかもまったく頭に入らないのである。
 だけど、だいたいどんなことがかいてあったかは覚えているので、この本に「宿神」のことが書いてあったことや、とても深いことをわかりやすく書いてくれていたことも覚えていた。

 そして、今回あらためて読みなおして、自分の中で新たに「腑に落ちた」ことがあったのである。

 宮崎だけではないのだけれど、神楽のクライマックスに「岩戸開き」がある神楽は多い。岩戸の前でのアメノウズメの舞が神楽のはじまり、なんて信じてる人もいっぱいいるのはしかたがないけど、神話としての岩戸開きは重要なもので、それが神楽に採用され、とくに明治維新後の国家神道普及のためにもおおいに役立った。
 敗戦まで神話は歴史の教科書で事実とされていたので、「神国日本」「皇国日本」を刷り込むために利用もされたことだろう。

 だけど、編集された記紀神話の前に地のそれぞれの神話があり、宮崎の神楽には一皮むけばそのような痕跡をあれこれ見つけることが出来るのである。

 そのひとつとして岩戸が開いた時、現れるのが子供、ということがあり、諸塚(もろつか)神楽や銀鏡(しろみ)神楽などの他にも山口県の三作(みつくり)神楽でもアマテラスは子供である。
 この解説として、「もともと太陽が衰えてから復活する冬至祭りがベースにあり、それに岩戸開きの神話が乗っかったので、大人の女神であるはずのアマテラスも生まれ変わって子どもとして現れる」というのがあり、これが一番納得できる、とこれまで紹介してきた。

 しかし、これにまた新たな解釈を付け加えたいと思う。
 『精霊の王』では宿神=ミシャグチと考えられていて、秦河勝のことなど細かいことをふっとばすと、このミシャグチは縄文の信仰が残っていると考えられていて、それは胞衣に包まれて童子として現れるというのである。

 なんだ、岩戸開きでアマテラスが子供として現れるのは「宿神=ミシャグチ」の古い信仰が残っているからなんじゃないか。岩戸は胞衣なんだ、と思った次第である。
 だからアマテラスとして現れたのは実は宿神なのかもしれない。この本での『明宿集』を見てみても翁=宿神は時に「荒神」として現れるという。そしたら宮崎の神楽三十三番のほとんどは地の神として、星の神として、荒神として、「宿神」が手を変え品を変え姿を変えて出てきているのかもしれない。

 宮崎の神楽を「宿神=ミシャグチ」の祭りとして見たら面白いのではないかと思った。ワクワク。

 写真は宮崎ではなく、山口県三作神楽の「神明の舞」であります。