宮崎・西米良村所神楽報告

11月第二土日が「奥三河・御園花祭」、第三土曜日は「全国民俗芸能大会」、第四土日が「宮崎・高千穂秋元神楽」、12月第一土日が「宮崎・椎葉不土野神楽」、第二金土が「長野・遠山下栗の霜月祭」、そのあと「東京花祭」、そして第三土日の先日「宮崎・西米良村所神楽」と「冬至祭と正月」がセットになったような祭に通い続けたのでクリスマスにはまるで関心がなかったのだけど、札幌の自宅に戻ったら娘が「今日は小さなケーキでも買ってこようか」と言うもんだから、ちょっとは世間並みの夜になるかもしれない。

まあ、それにしても今シーズンはよく神楽に通った。例年の倍くらいではないだろうか。
「御園花祭」は毎年多摩美の学生を連れて行くレギュラー日程だけど、6月に「せり歌についての聞き取り調査」で宮崎を周ったので、その仕上げとして実際の神楽を再訪したというわけである。
6月に歌そのものはどんな歌なのか知ることが出来たけど、「せり歌が歌われなくなったけど、また復活させましょう」と言われたところもあったので、実際に神楽の中で歌われている場面を確認したかったわけだ。

先週末の村所は西米良というエリアになり、宮崎から人吉に抜ける国道沿いの近隣では比較的大きな町だ。途中通った東米良エリアには尾八重へ行く分かれ道や銀鏡へ行く分かれ道があり、尾八重神楽や銀鏡神楽にもに行くときも通る道だ。

祭場は河川敷の開けたところにある公民館前の駐車場。村所の中心部である。
ちょうど「注連起し」という神事が始まるところ。銀鏡神楽と同じような注連を立てるのだが、前回見た時は三本、今回は五年ぶりの「本注連」ということで一本だった。

そしてそのあと近くの小高い場所にある村所八幡神社で祭典と宮神楽。ほんらいなら宵宮を徹して行われた神楽のあとの翌日の行事だが、先にやったほうがいろいろ楽、ということでこの順番になったとか。最近はほかでも見られるやり方らしい。
祭典の時に神楽囃子がつくのは東北でもよく見られる。まあ、でっかい神社ならこれが雅楽になるのだろうけど。

九州のこのあたりは菊池氏が勢力を持っていたところなので、同じく菊池氏のいた遠野と交流があるらしく、早池峰嶽流の「平倉神楽」が来ていて、祭典と神楽の間の時間に公民館の中で一時間ほど神楽を奉納した。「平倉神楽」は親しくさせてもらっている「石鳩岡神楽」の弟子神楽になり、「岳神楽」の孫弟子になる。
今年は岳神楽の明治神宮公演があり、早池峰神社例大祭に行ったし、石鳩岡神楽の駒形神社例大祭も訪ねたので、ここでまた平倉神楽に出会うとはなんという御縁なのか。妙な感じもしたけれど(笑)。
「恵比寿」「天女」「天降り」「権現舞」と奉納したが、地元の人達には珍しかったらしく喜んでいた。


そしてそれが終わるとすぐに公民館地下へ。入り口のブルーシートに貼られた紙には「熟女のお・も・て・な・し」と(笑)。ここが一晩だけの居酒屋、ぼくにとっては「熟女バー」になるのである。前回はコンクリート打ちっぱなしの壁に電飾が飾られ、天井にはカラー電球が並んでじつにアヤしげで楽しかったのだが、今年は電気屋さんがセットしているうちに開店したので諦めちゃったらしく、蛍光灯だけとなり、かなり残念だった。

急いで行ったのでテーブルを確保することが出来て、一緒に行った高見乾司さんはじめ6人の参加者と一緒に腹ごしらえ。地の粉を使ったそばや煮しめ、ポテサラなどで米焼酎の『白岳』360mlのワンカップを。このワンカップは蓋がおちょこになっている徳利デザインのスグレモノなのだが、僕はお湯をもらってお湯割りに。すでに燗がついていたが20度でも僕にはキツいのである。米焼酎を呑むのも球磨の文化圏ということか。


そして7時過ぎに一番の「清山」から神楽三十三番はスタートした。ご祝儀を出すと神社の御札やお弁当とこれまた『白岳』の200mlのワンカップや手ぬぐいなどのお返しをいただく。
酒を飲まない参加者から200mlを二本もらい、夜遅く閉店間際の熟女バーでまた360mlを一本呑んだので、この夜のアルコール摂取量は20度を1320mlということになり、日本酒換算すると一升近くとなって後で計算して怖くなったが、常に薄めて呑んだのと、寝たり起きたりしたのと、寒かったのと楽しかったという要素が重なって、ちょうど良い酔い心地で二日酔いにもならなかったし、翌朝はすっかり醒めて運転もできた。眠かったけどね。

ここの神楽は舞いたくても舞えない人がいるくらい後継者が多いそうなので、それだけ実力者揃いで舞も美しくチカラ強い。笛も宮崎の中では音色、フレーズ共に艶っぽく流麗である。
そして今回の主たる目的は「囃し歌」。高千穂で「せり歌」と呼ばれる種類の観客が神楽に歌いかける歌である。これが最近下火だということで、6月に長老の中武雅周先生を訪ねて、どんな歌をいつどのように歌うのか取材したわけだ。そしたら先生はすでに若手の女性たちに声をかけ練習会をしてくれて、その時は神楽の中心メンバーも太鼓と笛を鳴らしてくれた。
なので、ここはさぞ盛り上がって復活するだろうと見るのを楽しみに来たのである。

ところが村所神楽は前半が「神神楽」、後半が「民神楽」となっていて、囃し歌が出せるのは「民神楽」になってから。配られたプログラムにもこのことが書いてあって囃子歌の文句もいくつか載っていたのだが、日付が変わってもなかなか民神楽にならないのである。結局四時過ぎくらいに民神楽になったので、6月に練習に来ていた人たちに「囃さんですか?」とリクエストしてもなかなか囃子が出ない。
結局「荒神」のときに、ずっと酔っ払って乱入を繰り返していたおじさんが酔いながら囃し始めたので、「出ないなら出しちゃえ」ということでおじさんの横に突入。紙を見ながら囃しのタイミングを見ていたら地元のお母さんたちや氏子のおじさん、そして練習会の若手も一人集まってきて、5時ちょっと前に囃すことが出来た。

雅周先生がいたらもっと出てきたろうけど、先生はとっくに帰ってしまっている。
せり歌、囃し歌の衰退の一つの理由は「目立ちたくない」という人が増えたせいなのだとか。歌い始めればカメラも向けられるし。だから練習会に来ていた娘さんの中には恥ずかしがって来なかった人もいたのだと思う。

雅周先生によれば「酔っぱらいが囃しを出すことはあっても、みんなで揃って歌うことがなくなったからねえ」ということだったのだが、今回は短かったけどなんとかみんなで囃すことが出来た。お母さんたちはやはり同じ思いだったらしく、自分たちで囃し歌のプリントを作り、その最後には「みなさんのご協力をお願いします」と書いてあった。なので終わった後「ありがとうございました」とお礼を言われてしまった。
今夜の囃しがきっかけできっと来年からはもっと囃しが出ればいいなと思った。きっと出るだろう。

神楽自体は保存会があって、無形文化財に指定されたりするが、せり歌はみんなが思い思いに歌うものだから保存会なんてないし、文化財にもなっていない。ここはぜひ宮崎県で文化財指定を考えてもらいたいものだ。対象は「せる人たち」(笑)。

そして安心したせいかその後の「岩戸開き」関連の演目では寝てしまったようで、空もしらじらと明けてからの面白い「部屋の神」で復活。この「部屋の神」は銀鏡では「室の神」にあたる。そして尾八重では「ばんぜき」となり、女の神様なんだけど、最後に股間から男根を出すのである。
12年前に来た時より残っている人が少なくて盛り上がりに欠けた感もある「部屋の神」だけどお客さんと十分に絡んで面白かった。

「注連倒し」ではこれまでさんざん乱入を繰り返していた件の酔っ払いおじさんに面を着けて臨時参加させてた。そしたらおじさん緊張しちゃったのか、それまでよりおとなしくなっちゃって(笑)。
こういう、酔っぱらいの扱いも神楽は上手だし、酔っ払う側もギリギリのところで祭を壊さないようにやっている。「しかたがないなあ」で済むあたりで。
こういう光景はいつも見られるものではないと思うが、これまた共同体の生きた姿としていいものである。
しかし、おじさんも酔いつぶれることなくコンスタントにずっと元気で酔っていたのには驚きである。僕は寝たり起きたりしないと無理だ(笑)。

21日の14:45頃の「注連起し」から始まった村所神楽は22日の8:45頃の「ししとぎり」で無事終了。夕方ポツリと雨が落ち、雪になるかと思えたが、無事に終了。お疲れさまでした。


オマケ : 12年前の注連の写真