海峡三座報告

 10月23日に行われたで松岡正剛さんの「ISIS編集学校」の九州支所「九天玄氣組」のイベント『海峡三座』に呼んでいただき、懐かしの門司港に行ってきました。22日は門司でその前夜祭でした。
 小学校の 三年二学期から五年一学期まで門司市清見小学校(今は廃校)に通ってました。西鉄が強くて下商が強くて、炭鉱の事故もあったけど、僕にとってすごく楽しい二年間でした。
 東京から来た青白い顔をした情けない子供に見えたのか、担任(女)からは「萎びた野菜みたいなやつだな」といじめを受けたけど、学年でけっこう人気のあった女の子とラブラブだったし。

 22日は「海峡三座」の会場の「三宜楼」を確認したり、打ち合わせをしたり。空き時間に散歩に出ました。





 子供の頃、母親と一緒に買物をした門司港の老松公園横の中央市場。日本がイケイケになる頃で、ここも賑わっていたけど今はシャッターのほとんどが閉まりこんなになってた。住んでたのは64年の東京オリンピックの前くらい。散歩してたらなんか感慨深くってウルっとなった。
 シャッターは閉まっていたけど看板は残っているので「あっ、この魚屋さんの端っこにはクジラを切り分ける髭の濃いおじさんがいたな、マテ貝を売るおばさんからは"おまえのチンチン”sとからかわれたりしたなあ」と思い出したり。


 22日の門司での前夜祭ではせり歌を紹介したので、歌を聞いてもらいたくて30分の時間内では話が少なかったんだけど。
 帰りのタクシーの中で松岡正剛さんと雑談していた時に本を読んでくれたようで、文章を褒めてくれた感じで嬉しかった。「明日はあの文のように喋ってくれ」と。
 喋れるかなあとちょっとプレッシャー^^;

 さて、23日の本番。「海峡三座」と名付けたように関門海峡を望みながらかつての海峡の役割や門司港の歴史などを掘り起こし再発見などもしながらの「九州の音なひ 原郷編」というサブタイトルがついていた。
 なにしろ松岡正剛さんの編集学校のイベントなので、高度な編集感覚満載です。

 会場は昭和6年に建てられた木造三階建ての高級料亭。今は保存活動によって運営協議会が運営。見学も出来るけど、ふぐ料理の「下関春帆楼」ブロデュースによるランチとディナーを出す「三宜楼茶寮」でもある。

 ここの二階の「百畳の大広間」を使って「海峡三座」は行われた。
 「三座」の内容は「三曲座」「三祭座」「三冊座」という構成で「三曲座」三味線と歌の本條秀太郎さんとお弟子さんの秀五郎さん、秀慈郎さんの公演。間近でノーマイクで秀太郎さんの粋な端唄や民謡をこの場所で聞ける贅沢さ。

 僕は「三祭座」の担当で九州土着の神楽を30分の駆け足ビデオジョッキー。それぞれのシーンがほぼ1分前後の31シーンだったので説明替が終わらないうちにシーンが変わってしまうため、それぞれの解説のレジュメを配布して後から確認してもらえるようにしました。
 僕のあとは能舞台を使って福岡県嘉麻市の射手引神社を本拠に創作神楽を立ち上げた弥栄神楽の上演でした。

 そして最後は松岡校長による講演。海峡の話、神話のパンテオンの話、いろいろ話が出たけれど、大広間が夜は営業になるため時間が限られていたため、松岡さんにとっては時間が足りなかっただろうけど、最後にまた本條さんたちの三味線と歌で締めました。
 九天メンバーの結束力、実行力のおかげでお客さんもたくさん入り、とても盛り上がりました。

 そして小倉へ移動して関係者で打ち上げ。どんどん新しいことをやってらっしゃる本條秀太郎さんたちといろいろお話ができてよかった。

 僕は「三味線の音が怖い」という話をさせてもらった。怖いというのは嫌なのではなくて、好きなんだけど強烈な個性なので自分の音楽で使うのがむずかしいということ。
 いくらシンセでベースの音楽を作っても三味線が入ると「三味線音楽」になってしまう。
 一曲だけ、一音を"ビーン"と使うのが精一杯だったと話したら、お三方、その意味がわかってくれた。若手の秀慈郎さんとはエレキギターの話で盛り上がったりして(^^)

 わりと早い時間に「ゲストに何か一言」の役割が回ってきたので、余興を兼ねて「花祭のうたぐら」を歌って、ちょっとだけ盛り上がりに貢献^^;

 三宜楼で話し足りなかったのか、松岡さんの挨拶はほぼ講演レベルでとても面白かった。

 別れ際に松岡正剛さんからは「またいいもの出すように」と励まされました。
 こんど出す本のモチベーションは上がりました。