全国民俗芸能大会と民俗芸能学会

22日の全国民俗芸能大会@日本青年館
この神楽に出会ってなかったら今の自分はなかったかもという、隠岐島前(おきどうぜん)神楽が本公演と研究公演をつとめる、言わばメインの神楽として出演したので、感無量。

とにかく他に類を見ない、高度な音楽性を持つお囃子にぶっ飛んだ訳で、今でもこんなモダンな音楽が江戸時代からあったなんて、不思議でならない。
イントロありエンディングあり、途中でブレイクも入るし、三拍子と二拍子がブリッジを使って交互に演奏される!

一曲の中で四拍子と三拍子が使われている曲をはじめて聞いたのはビートルズの「恋を抱きしめよう」だったんだから。

この出会いがあって神楽をいろいろ見はじめて、他のさまざまな神楽の個性、シンプルなお囃子やアヤしいおまじないなどの良さもだんだんわかって来たわけなのであります。
なんか最初の偶然の出会いがこんな日を迎えるなんてね。

終わった後、北上の阿部さん、横浜の斎藤さん、弟子のひょっとこ君などと軽く飲んでアジトに戻ったけど、嬉しくて寝酒飲み過ぎて寝ぼうしちゃった。


23日も前日と同じく日本青年館に行ったけど、「民俗芸能学会30周年記念大会」というのに出席したのでした。
だいたい、入会してから数年だし、「学会」なんて肌に合わないのだけれど、今回は神楽ばっかりがテーマで、親しい先生方が発表したりシンポジウムパネリストだったりするので「たまにはおべんきょう」ということでね、顔出しました。

各先生方の発表や話はそれぞれさすがに面白かったけど、「神楽の本質と変容」というタイトルのシンポジウムとしては、なんかよくわかんなかった。
学問として神楽の定義や分類がきちんとなされていないからこんにちの混乱がある、ということでみなさん、いろいろ発言してました。

でも、学問の外にいる身からすると「学問それ自体、今までのままでいいの?」という疑問も。

研究対象から距離を置き、原理的に捉えようとするのが、まあ学問らしいのかな。でも、フィールドワークを重ねるうちに、現地、現場と寄り添う形で研究している先生方もいて、そちらのほうに共感するあたしでした。
世の中を良くするのが学問だと思うしね。

基調講演をした山路興造先生は、これまでの分類は学問的でないとして、神座(かみくら)に神を招くのが神楽だから分類はどこに神を降ろすかで分けるべき。祓う行為の湯立ては神座ではないので「湯立神楽」は「採り物神楽」とすべきで、あとは「獅子神楽」「巫女神楽」であると。

花祭のびゃっけや天蓋は神の依代と考えているから神座では、という質問には「あれは大寺院の本尊の上に飾る金属の飾りを修験者が紙で作ったものなので仏教のものであり神座ではない」と。
原理的にそうなので、各地それぞれの解釈はあるだろうが、ということではあったけど、あり得ないと言いたそうだった。

ちょっと待ってよ。そしたら獅子頭は仏教じゃないかもしれないけど外来のものですよね、それは神座にしていいの?という疑問が浮かんだんだけど、異議を唱える先生方もこれから出そうだし、まあ、アマチュアなんでここで書いてる次第(笑)

神座はもともと巨木とか巨石だったのが、いろんなツールが出来てそれが採り物となったわけだけど、その時その時に「こりゃ使える」としてきたわけで、御幣(紙の前の素材も含めて)よりも剣のほうが後だし、剣と言って持っているものは実際はその後の刀だし。そしたら大量の御幣で作られる天蓋も神座として認めていいと思うんだけどなあ。

まあ、学問の話は置いといて、ぼくは「今の神楽」が「今の世の中」にとって「どのような価値があり」「神楽が存続することによってどんなよい効果がもたらされるか」を考えたく、また実践したく、そのためにより多くの人に神楽を知ってもらいたいと思っているし、またそのためにはもっと神楽のことを知らなければ、ということで学者でもないのに、学会に顔を出したのでありました。

今回は両日、次世代を担う若手の「神楽バカ」に何人も会ったから、それが嬉しかったぞ。
学問は先生方に任せて、ちょいと距離を置きつつ神楽に寄り添っていきたいなー。お〜も〜し〜ろや。