昨晩のたね蒔きジャーナル 金曜版

6/22(金)

 永岡です、毎日放送ラジオのたね蒔きジャーナル、今日も水野晶子さんの司会、毎日新聞専門編集委員近藤勝重さんの案内で放送されました。今日の毎日朝刊(大阪版)に水野さんの写真が載り、たね蒔きジャーナルのことをコラムニストの方が書いておられて、この番組を聴かないとわからないことが多い、メディアへの市民の目も厳しくなっていると水野さん言われました。

近藤さん、民主党に政党としての価値なし、政権を取ったのは小沢氏の手腕であり、小沢氏で安定感があった。野田氏がそれを無視して、とんでもないものを野田氏が取り入れ、アメリカの言うことを野田氏聞いて、近藤さん、出て行くのは野田氏らと言われました。鳩山→菅→野田と自民より自民になった。小沢氏の戦法も2正面作戦、止めさせるか出て行くか、数字で決まるものです。野田氏、命を守るとか言うものの本質は、自分を守るためのものと近藤さん言われました。

 原発のニュース、大飯再稼動で、政府は節電目標を15%→10%にする、計画停電は48区に分けて2時間ずつやる。当日必要なら2時間前までに連絡すると言うのです。医療、警察、空港は外されます。

 プレイバック川柳、今日は勢いがあるとのことでした。今週近藤さんの選んだのは「命までかけた法案 これかいな」でした。

 で、水野晶子のどないなっとるねん、にて、オスプレイの訓練場、沖縄の高江の住民、石原岳(たけし)さんのお電話でのお話がありました。オスプレイは沖縄を拠点に日本中を飛ぶと言うのです。明日の沖縄追悼式典に野田氏いくのですが、オスプレイの話はしないのです。石原さん、前はスタジオに来られました。オスプレイ、事故を起こすものが高江に来ると言われて、これは来ることは決定なのです。

2006年から米軍は配備すると言っており、日本政府に言うと、正式な配備の決定は日本政府は聞いていないと言っていたのですが、決まったら理解を得るために、と日本政府はやるのです。石原さんの知らないことも多く、オスプレイは垂直離着陸が出来て、従来のヘリCH46より広範囲で飛べる、軍隊には好都合なものなのです。開発段階での事故はどんなものでもあるのに、実戦配備後(2009年〜)毎年事故が起きて死人が出ているのです。4月にモロッコで墜落、この前はフロリダで墜落、しかし日本政府はアメリカが問題ないと言っているのです。

設計+操縦の難しさがあり、オートローテーション、エンジンが止まっても風で降りられる機能がなく、止まる=墜落であり、日本の航空法では飛ばせられないものなのに、日米地位協定で飛ばされる代物なのです。沖縄で飛び、本州の長野でもオスプレイは演習するのです。6つのルートがあり、四国〜紀伊半島〜東北を飛ぶと、今になって分かるもので、米軍は考えていたのに、日本政府が情報を知らせたくないとしていたわけです。高江は民家に近いところにヘリパッドがあり、今でも住宅の上を飛び、県道の絵も飛ぶ、怖いのに、オスプレイだともっとエグイ話になるのです。普天間だけでなく、沖縄、いや日本全土が危ないのです。沖縄も高江だけでなく、普天間、嘉手納も飛ぶのです。

 訓練のために飛ぶのであり、近藤さん、訓練ならアメリカでやるべきと言われて、石原さん、危なくてアメリカでは飛ばせない、アメリカでは法律が厳しく、日本ではやりたい放題(地位協定)なのです。総理が命賭けて反対しないといけないのです。

 オスプレイの反対で大きな集会が沖縄で開かれ、自民党も反対し、仲居真知事も、各市町村長も全会一致でNOなのです。本来、入る余地はない、これこそ民意なのです。

 明日、野田氏が沖縄へ行くのですが、沖縄では今まで沖縄詣では総理もあり、筋を通してくるのはいいが、このやり方は足を踏みつけたままよろしくということで、沖縄はまず足をどけてくれという思いです。

 アメリカは配備する、日本が止めてくれと言えばいいのに(無理なら撤退、世界でも撤退)、日本政府もアメリカにはっきりと言えば良いのです。それが言えないのは、何かがあり、パワーゲームがある。辺野古移設もアメリカはないというのに、日本でそうしたい誰かがその意思によりやっているのです。野田氏、何をしに来るのか(広島の原爆の日のようになるのか)、と言うことです。以上が、高江からのお話でした。

 リスナーの声もあり、米軍の言うままの野田内閣に怒り、日本国民の命をどう考えているのか、国民の重要なことを有無を言わせずやるのは民主国家かという声もあり、16歳の高校生、大の大人が足の引っ張り合いという声もありました。

 最後に、近藤さんの、幸せの雑学、近藤さんより上の世代は戦争を体験し、その話はポツリポツリと話しても味がある、節目、言葉を成熟させるもので、ところが、今の社会は近藤さんが子供のとき、テレビの来たときにストーリーがある(電話、車もそう)のに、今はない。人の生き方からストーリーが消えており、恋愛小説は節目でなく境目をどう書くかであり、心情をどう書くか、一瞬に何かを感じ取る、その描写で、気持ちが近づく描写で、その節目、境目は人間の言葉を作るのに大切で、日は軒の下から暮れて来る、女を待つ男が居る、日暮れの気配を待ち、影がゆっくり伸びる気配を描き、軒の下から日が暮れるが、マンションではそれはない。たずねて来る、軒の雨、ストーリーはアナログ、便利だから買ったのではストーリーにはならない、明治、大正、昭和の文学で、文章のよさは時代の中で作られたもの、今は間のない世の中、商業の中で組み込まれ、「間」の中にストーリーがない、生まれようがない。若い人は間を嫌がるが、間を持つものが盛り上がる。子供が言葉を持たずに大きくなると、近藤さんの指摘がありました。

 今週もたね蒔きをお伝えいたしました。