昨晩のたね蒔きジャーナル 7/19

今日も永岡さんがまとめてくださいました。

7/19(火)

 永岡です、毎日放送ラジオ「たね蒔きジャーナル」、今日も水野晶子さんの司会、毎日新聞ほっと兵庫平野幸夫さんの解説で放送されました。今日は台風情報のために小出先生のお話はお休みで、チェルノブイリ事故の際にドイツで食物の汚染を体験したジャーナリストの山本知佳子さんのお話がありました。


 原発のニュース、福島原発で原子炉への注水を減らしています。午前5時で4トン/時間を3.8トンに減らしています。台風による汚染水問題のためです。


 また、菅総理、ステップ1が終了し、収束のめどがついたと言いました。原子炉の安定的な冷却が出来たと言うことです。今後3〜6ヶ月のステップ2、住民避難解除の工程表を発表、放射線量の減少を確認しています。年間1ミリシーベルト以下に抑えると言うことです。平野さん、政府だけがきちんとした段階を経ずに言っている、12万トンの汚染水があり手付かずであり、毎日不具合があり、原子炉の損傷が分からない状態で、なぜ第1段階終了と言えるのかと批判がありました。地下ダムのことも、いつまでに作るのかも工程表に出ていない、工程表になっていない、菅総理の言う「めどがついた」=先送りなのです。明確に、何が出来ているのか、が分からないのです。リーダーとしての決意の希薄さを感じるとのことです。


 牛がわらが汚染されていたこと、山形県の保育園に給食として出されたと言うことです。園児242人、職員50人が食べました。一人20〜40g食べています。


 平野さん、菅総理、自分が国会を阻害していると自覚しろと批判がありました。今日も、国会でちゃんと答弁していません。


 そして、山本さんのお話、25年前にドイツで体験された(西ベルリン)、チェルノブイリ事故のことを「ベルリンからの手紙」として本を出しておられますが、ベルリンはチェルノブイリから離れているものの、ドイツの人も予想していなくて、1200km離れているのですが、ドイツだけでなく、ヨーロッパの人はまさかと思ったものの、放射能汚染が降りかかったのです。日本だと、1200kmなら福島−九州が全て入り、北は北海道はもちろん、北方領土のほとんども入るのです。


 汚染は、原発が事故を起こしたら大変とは思っていたものの、自分の身に降りかかるとは思わなかった、西ドイツ政府も、ソ連原発に対策は取れない、情報が取れず、スウェーデン放射能が検出され、風向きからソ連と思われ、そして、ソ連が認めたのです。事故が4月26日、その後2〜3日でソ連と分かり、放射能の値が乳製品、ほうれん草が汚染、子供を外に出さないなど、今の日本と同じ状態なのです。


 西ドイツ政府の規制も厳しくなく、ドイツの汚染がひどいと言うことは3〜4日でマスコミも報じ、しかし、放射能汚染のことは「すぐには影響はない」とドイツでも言われたのです。市民は、政府、行政に、汚染値を測れと言っても政府の動きが鈍く、市民で情報を集め、測定したのです。食品では、はちみつ、ヨーグルトが汚染され、汚染物は季節により変わり、最初は葉物、その後きのこ、ベリー類、はちみつ、牛乳(ヨーロッパは乳製品の使用量が日本より多い)が汚染され、ドイツだと、4ヶ月で肉の汚染、淡水魚の汚染が確認され、さらに秋には穀物が汚染され、干草を食べた牛、牛乳に汚染が出て、最初の数ヶ月だけではなく、汚染は続き、様々な食品から汚染が出て、山本さん、最初はどうしたらいいのかと言うことで、汚染の中でどう自衛するか、大事なのは事実を知ること、どこでどれだけ汚染されているかを知ることがあり、政府、自治体が測定しないなら、市民がお金を出し合い市民測定所を作り、ニュースレター、口コミで測定値を出していました。


全てのものは測定できず、継続的に測定して、全体像が分かる、また、ドイツにも、南ドイツのバイエルン州ホットスポットが出たのです。南ドイツの乳製品のほうが汚染値が高く、子供を持つ人は北ドイツの乳製品を求める、今はこの食べ物が危ないと自衛策を取る、というものでした。妊婦、小さい子供を持つ人がニュースレターを読んで情報を得ました。国に頼ると後手後手に回るのです。


 また、ソ連で起きた事故なので、政府も情報が得られず、自分たちで測定するしかなかったのです。


 日本でも牛肉、小売で情報をどうするか議論もありますが、ドイツでは店により対応が異なり、南ドイツの肉屋、測定してそれを貼って売っていたのです。汚染値の高いものは出さないと言うことで売りました。かえって、客が増えたのです。汚染値を公表する信頼感があったのです。はっきりした情報を出すのが信頼になるのです。


 情報を出していないとかえって不安になる、汚染の現実をはっきりさせることが必要で、オープンに話が出来るとのことなのです。


 これが25年前のチェルノブイリの現実でした。今回は時間がなくここまででしたが、今後も山本さんのお話があります。