10/10 田中泯さんと中沢新一さんの対談

10日の田中泯さんの早稲田・演劇博物館での「場踊り」。館内で見るのには間に合わなかったけど、外に出て踊ったのは見ることが出来た。
韓国の民俗芸能で見られる「病舞」のような踊りだった。

その後の「アフタートーク」、中沢新一さんと泯さんの対談は1時間という短い時間だったけど、内容は興味深いものだった。
ちゃんとメモしたわけではないので正確な報告ではないし、一部のことになるけれど、「こんな内容にぼくは惹かれました」ということで、とっちらかってますがごかんべん。

泯さんの踊りを見たうえでの中沢さんの感想があり、そこからスタート。

その「踊り」の話の中で、「見せる」「売り込む」ことばかりやっているナルシシストのダンサー(ダンスグループ)が多く、自分が消えてしまうようなアプローチをするものが少ない、というような話に。
泯さんはそれを土方巽から教わったけど、彼の体の「動き」が重要なのではなく、その圧倒的な「存在感」を自分も得たいとずっとやってきた、というような話。

中沢さんもそのナルシスが消えた状態がホモ・サピエンスが踊りというものをする衝動の中の重要な要素であると、縄文の話など交えながら語っていた。
この「衝動」も僕にとっては大きなテーマで、多摩美の授業のシラバスにも「音楽の衝動」として入れているキーワードだ。

面白かったのは、芸能者はほんらい今で言う非差別者(賤民)だったというところから、中沢さんは「学者もかつては芸者と同じ範疇にいた」「今の学問の外にいる学者でありたい」と言っていたこと。
まさしくその通りで、僕は中沢さんは学問を伝えるエンターテイナーだとずっと思っているのであります。

ちょっと自分に引き寄せすぎて聞いていたかもしれないけど、あらためて文字になったら読みなおしてみたい。

もし質問コーナーがあったならぼくは泯さんに「泯さんにとって舞を舞うことと踊りを踊りを踊るということに、どんな違いがあるでしょうか」ということを質問したかった。

ここのところ「舞と踊り」の違いのこと、なんで二つの呼び方があるのか、を考えていたんだけど、このトークでもいろいろヒントが得られたから。
ただ、話の中で「舞」という言葉は一度も出てこなくてすべて「踊り」だった。