「失った文明」のことをまた

先日も書いたし、たぶんこれから何回も書くかもしれないけど、林秀彦著『「みだら」の構造』を13年ぶりに読みなおしているのは遅きに失した感はあるが、まだ間に合うという気もしている。これと15年前の渡辺京二著の『逝きし世の面影』を合わせると、明治維新による中途半端な文明開化で長く続いたこの列島の、世界に類を見ない素晴らしい文明が儚く消えたのではという仮説に頷いてしまう。

これは神楽が明治維新で大きく変えられたということを実感したのが大きい。両著を手にとってから数年経って気がついたわけなのだが。

再び『「みだら」の構造』から一部長くてゴメンナサイの抜粋。
だって神楽とダブるんだもん。
ここだけ読むと「ウヨク」「ナショナリスト」と読まれるかもしれないけど、違うんです。

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 日本民族は世界で唯一無二の☓☓☓☓(三上註 : 「おまんこ」と読むとよい)民族であり、縄文から数えても一万有余年、ただひたすら☓☓☓☓(以下同註 )に生き、☓☓☓☓に死んでいったのだ。
 それはいかにわれらが平和で、豊かで、寛容の精神に富み、人情に厚く、繊細なココロをもち、無欲で、優しく、輝くばかりの生命力をもった太陽の子どもたちの尊い証拠となるものなのである。
 平塚らいてうが『青鞜』において、「元始、女性は太陽だった」と言ったのは、決して単なる言葉の綾ではなかった。ただしそれは日本女性だけのことで、コーカシアンの女性たちのことではない。いかに日本女性の☓☓☓☓が太陽の恵みや、その生産力に匹敵するほどに豊穣であったか、立証するだけで本の頁は終わってしまうだろう。高群逸枝の本には、それらの素晴らしい実証が書かれている(例えば『女性の歴史』)。
 その女性に鼓舞され、誘発され、日本の男もまた世界に類を見ない豊穣な性欲とその発散者となったのである。他のいかなる民族が、これほどに☓☓☓☓を享受し、堪能できたというのだろう。現在、曲がりなりにも文明国、先進国と称されている国々の民族、日本を除く洋の東西を問わぬ彼らの☓☓☓☓は、常に血塗られた陰鬱なものだった。
 特に近代文明の創始者であるコーカシアン、白人たちにとって、☓☓☓☓は私有財産を確保する一要素に過ぎなかった。マルクス・エンゲルスふうに言えば「生活資料の生産」が主要目的で、そこにある本来の「生命の生産」はその下目に置かれた。畢竟女性は、私有財産を相続させるべき嫡子の生産だけが課せられた役目となり、女性そのものが男性の財産の一部とみなされるようになったのである。結婚制度とは、経済システムのことだった。

(中略)

 秩序とか道徳というものは、泥棒が増えるからオマワリが増えるみたいなもので、経済の「需要と供給の原理」と似ている。明治以降の日本は、西欧文明諸国に対する強い劣等感から、体質にまったく合わないあちらさまの価値観とか、需要もない道徳観を輸入しまくったのである。
 だが、必要もないのに外来の観念を輸入するだけでつくられる秩序や道徳など、たった一人の泥棒のために千人のオマワリを揃えるようなもので、結果的にはアノミー状態を作ってしまうのだ。
 なかでも性に対する観念、すなわち日本の伝統的な「みだら☓☓☓☓」に対し、当時の啓蒙家(特に小説家などの文芸啓蒙家)はまったく理に合わない劣等感をもった。そのため不必要な西欧カブレした性道徳や性秩序を導入したのである。

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いまさらいってもせんないことだけど、明治維新と文明開化がなかったらどうなっていただろう、あるいは起きてしまった以上、それらを少しでもチャラにするためにわたしたちは「今」をどんな境地で生きていけばいいのか、考えてみる価値はあるし、それは原発をなくし国軍をなくすという方向になるものだと思う。

先日も書いたけど、放射能や戦争で国が滅びるくらいなら☓☓☓☓にうつつをぬかして滅びたほうがなんぼいいことか。

先日谷川健一先生が亡くなったが、3年前に亡くなった著者の林秀彦さんと生前出会っていたら、とか小沢昭一さんと出会っていたら、とか妄想してしまう。