昨晩のMBS「報道するラジオ」 10/26

 永岡です、毎日放送ラジオの報道するラジオ、今日も水野晶子さんの司会、毎日新聞ほっと兵庫編集長の平野幸夫さんの案内で放送されました。

 まず、今日は原子力の日で、去年は小出先生、この日を忌むべき日といわれた日であり、脱原発法案について、上田崇順(たかゆき)さんの現地報告です。 平野さん、国際反戦デーと勘違いされ(それは10月21日です)、1956年の10月26日に日本が国際原子力機関に参加した日なのです。さらに63年10月26日に東海村で原子炉稼動であり、鉄腕アトムも宣伝になった程なのです(永岡注:ですが、手塚治虫先生は、反原発で、アトムが宣伝に利用されたことを批判されています)。3・11以前は盛大に祝われたのに、それ以降は原子力とどう付き合うかであり、政治の場で原子力政策に影響する会議が開かれ、脱原発を法律で決めるための法案が9月に国会に提出されたのに(ほとんど会期末のため知られていない)、それが法律になるのか、上田さんの報告です。

 上田さん、9月7日に社民他の6会派で提出され、継続審議となった法案で、総理が脱原発と言っても法的な拘束力はなく、逆に推進する法律はいくらでもあり(電源3法etc)、法律を整備するものなのです。これを望む市民が増えて、超党派のチームによるもの、参議院会館でのものに傍聴300席はビッシリ、首都圏反原発連合も意見を述べ、12時から4時間近くやったのです。市民の熱気は大変で、気になる内容なのです。

 その内容、基本理念は、平成32年〜37年までの早い3・11に脱原発実施(2020〜2025年)。約10年かける。期間について疑問があり、今すぐではないのか、法案を作った国民の生活が第一の松崎議員、代替エネルギー天然ガス発電の開発スピードもあり、環境アセスは1年かかり、1基作るなら何年か、52基の代替の火力には生産を始めないといけない、6,7年かかり、10年をめどにして、それを前倒しにすると言うものです。つまり、代替のガスコンバインド発電を複数作るのに6,7年要り、その結果が10年と見積もられるのです。

 期間のこと、5年の差は、超党派で集まったため、国民の生活が第一社民党の福島氏は意見も異なり、各会派で脱原発の見込みが違い、一つにしたら分かれてしまい、一つに集まる重要性があったのです。

 内容について、3条の4項、脱原発のため、発電に擁する原子炉は最新の科学的見地に基づいて安全を認めないとダメとなり、その時の最新の見方で基準に合わないと、運転再開はダメであり、それを誰が決めるか、規制委ではないかとするが、それだと再稼動OKになり、これは再稼動の余地のない表現にするとなり、法案を作った弁護士はこれでOKと言ったものの、市民の声は違っていたのです。松崎議員、再稼動を止める努力をしているが、責任の一端は自分たちにあり、そのうち待っていたらゼロになるが待ってほしい。また、ゼロと書いたら入ってくれる議員も減るとなり、今回の会議で、政治家をどう選挙で選ぶのか、脱原発の政治家は誰なのかということになり、この法案に賛成する議員=脱原発、そうでない人と、分かりやすくするという目的もあるのです。選挙の際に誰に託したらいいかを見せるものなのです。

 しかし、実際の議員の意図と、表向きがあり、選挙のときだけ脱原発と言い変わるものがいたら困るので、意思表示をはっきりしてほしい、分かりにくい政治家をどうあぶりだすか、とまで行っているのです。そこまで気を回しているのです。
 市民はもう騙されたくなく、即時止めるのが市民の主張で、長い期間だとまた稼動されるという危惧もあり、選挙では脱原発か推進かを争点にするために大変なのです。以上が、上田さんの報告でした。リスナーより、口だけの脱原発議員もあり、選挙目当てという意見もあり、また地震の多い日本で、脱原発に猶予はないとの意見があり、平野さん、この人たちは会議より、大間の工事を止めるのが先だと言われて、このまま行くと2050年まで動かされると言われました。今の状態を見過ごすと、現状を認めさせて止められないと言われました。法案も要るが、パフォーマンス的にやることに異論がありました。

 第2の特集は、今揺らいでいる学校、戦争中の学校日誌を調べておられる元高校教師の田中仁さんがスタジオでお話をされました。学校日誌が語る戦争時代であり、職員の書く日誌を紐解くと、戦争の記録があり、田中さん、日本史を教えて、戦争の歴史も教えられ、しかし戦争のことはテストに出ないので教えられない。これについて、明治時代で終わり、田中さん戦後も教えるようにして、田中さんが昔の学校日誌を見て、戦争中の物凄い記録があり、最初田中さんご覧になり、進駐軍に焼かれたと思っていたものが、偶然から、福知山高校(戦前の旧制中学の記録)などがあり、それを教材化できないかとして、目立つ記事をプリントして授業にしたのです。反応は、戦争は遠くのことと思っている子が多く、しかし自分の地域も戦争に巻き込まれたと、生徒の関心を引いたのです。

 そのエピソード、平野さん、インパクトがあったのが、満州開拓のため少年義勇軍が行き、悲惨な目に合い、シベリア行き直前の悲惨なことで、これが切々と胸を打ったと言われました。ソ連にやられて逃げるところの記述がすごかったと言うのです。満州は夢の新天地と言われて、その手先に学校がなり、昭和恐慌の中、農村不況で、政府は農山漁村を救済する運動で、過酷な状況を自分たちで何とかするため、満州を開拓するものであり、少年を行かせた(移民政策、1936年に国策、20年間に500万戸移住、これが難航)。近衛内閣で子供も行けとなり(1938年から)、満州の開拓の役所があり、ここの監督の下で、茨城に青年義勇軍が作られ、教師の体験入隊のものすらあり、そういう先生が青少年義勇軍を募集したのです。子供、保護者に薦めたのです。

 学校にはノルマがあり、1941年3月11日、京都の福知山の学校の日誌に、義勇軍に2名出るのはこの学校の名誉と校長が言うのです。これはノルマを国からのプレッシャーを感じていた校長の本音です。躊躇する子供もいて、しかしそれをどんどん行かせる記述もあったのです。先生は行かせたくないが、ダメだった。このことに、この校長は後々引いているのです。

 田中さん、福知山の小学校から満州に送られた方の体験を聞き、義勇軍として行き、生き残った方で、1939年に行き、この学校から8名行き、戦後の混乱で4名亡くなり、帰ってこられたのは4名のみ。毎日のように村長、校長などから自宅に来て薦められて断れなかったと言うのです。学校が軍、行政と一体になり、送り出していたのです。子供には耐えられないプレッシャーで、親が反対するのを教師が説得して、学校が大きな役割になり、京都では死亡率23%、全国的にもそういう数字で、当時の学校の責任が大きいのです。

 現地は、中国の人と向かい合う場面もあり、追い込まれていく厳しさが少年の目から描かれ、ソ連の進攻でエライことになり、何も良いことがなかったのです。そういう土地に国は行かせて、勧めたのは学校なのです。

 肉弾3勇士、有名な話で、日本は満州から国際世論をそらせるために上海事変を起こし、日本は火薬を竹の筒につめて突破しようとして、1932年、破壊筒を持った兵隊が3人爆死、上官の命令による事故なのに、3勇士を顕彰する歌が作られ、有名な人が関り、国民の戦意高揚をして、新聞も加担して、戦前の報道機関の苦いもので、これが後の特攻隊になり、これを賛美するのです。学校では歌だけではなく、5つの映画会社が映画を作り、早いのはたった10日に映画が作られ、学校は学芸会に肉弾3勇士を出した。授業をカットして肉弾3勇士の映画を観に行った。こういうキャンペーンに、学校が使われていたものなのです。このスピード、それだけのプレッシャーがあったためであり、学校がこうなった理由は、先生も分かっていたのに、田中さん、国民を戦争に動員する最前線に教師が立たされ、疑問を感じ、反対した人もいて、1938年に、反戦ビラが撒かれたこともあるのです。2種78枚、元先生が逮捕されたものの無実で、誰が撒いたか不明。この日の日誌もあり、警察に連絡し、警察署員と特高警察も来て、労組を作り辞めさせられた先生が逮捕されたものの無実。ビラは、皆さんシナを侵略してはいけない、地主のために聖戦との名目で駆り立てられていると書かれており、こういう運動は抑えられたもので、平野さん、勇気のある行為と言われました。

 そういう思いの人もいたのに、教師は最前線に立たされ、義勇軍の生き残りに田中さんインタビューして、子供時代のことについて、最後、これを薦めた人を恨まないが、馬鹿を見たのは自分たちであったと言われたのです。

 連日、親も含めて薦められ、兄も弟も行き、戦死、病死であり、この本だと、連日社会状況がこうだと校長が言っており、学校の教師の発言が重要な情報源で(情報が少ない)、勇ましい話をして、戦争への気持ちを向けさせるというものであったのです。

 平野さん、新聞記者をして、大本営発表というデタラメを新聞が伝えて、それを校長が子供に伝える、報道機関の怖さを感じられました。

 今、教育改革というものの、田中さん、今の流れは、戦時中、学校は総動員の要であり、学校と軍が上位下脱、教育委を挟み管理であり、行政の元に教育を管理するのに田中さん違和感を覚えるのです。

 はっきりした命令は不明だが、校長が追い込まれるものも見えるのです。

 以上、「僕らの村にも戦争があった」を書かれた田中さんのお話でした。
 このお話を聞いて、私には、尖閣は70年後の満州ではないかと思われました。

 脱原発と、戦争の中のお話について、リスナーより、国を変えるのはマスコミと教育、今戦争への道を歩んでいないかといい、平野さん、EHカーという歴史家、現在と過去の対話から歴史が生まれる、今に生きる教訓もあると言われました。威勢のいいことを言う政治家も多いが、この国はいつからこうなったのか、なのです。自分の町の過去、悲しい過去があるのです。今週も、報道するラジオをお送りいたしました。